おりょうが待まっちゆーうき早よー! ですか。 わかりました簡単に ハイ。
いえ明石にも住んでいたことも。 あのタコで有名なところです。おっと鯛もあります、忘れていました。 ここ下関はふくが有名ですけど。 あっ 食べましたか。
明石の話に戻ります。 そこで、ちょっとしたことで、高知の出身の方にお知り合いになりまして、それから厚かましくも、よくゴチになったものです。
奥さんの料理がおいしかったです。 美人でしたよ、お店のママさんもやってました。 ハイ。
その方が、マアそのあなた様へお手紙を出すという企画を立てられました。文章は会社の議書しか書いたことないんでレターをお出しするつもりはなかったのですが、 遠い昔のこと、当方の親戚に田山なにがしという作家がいたとの話を聞いていますので、作家になったつもりで、ちょっと気取って書いてみようと思っい、マー取材させて頂いてる次第です。ハイ
バーっと速読してみましたが、役に立ったかどうか。
亡くなった田山の本家伯父あたりの話では、曾祖父あたりは三田尻で下関条約が締結された「春帆楼」のような旅館を経営していたとか、また海鮮問屋をしていて岩崎家よ り大きかったとか、よく聞きましたが、たぶん眉唾でしょう。
明石時代に、田山花袋が知りたくて市立図書館だっと思いますが本を探しだし、裏表紙の写真を見たら親父そっくりなのには驚きました。私の祖父は田山から養子に来たのです。
昔の旧福沢記念館には、彼の生涯が一こまごとパノラマになっている紙芝居みたいのがあって、咸臨丸が太平洋を大揺れに揺れて渡米している模型があり、暗い場内から照明に照らされ浮き出ていたことが印象に残っています。 その船は大波に揉まれ揺れていました。
慶大出身の人もあまり知りません。 私ももう少し勉強すればよかった。だめか。
慶応3年の11月から5カ月程度、おりょうさんと生活していたのだそうですね。
下関の長府博物館には、おりょうさんが龍馬様にやきもちを焼いてお茶碗を投げつけたとか、その割れた茶碗が展示されているそうです。近いうちに行ってみようと思います。
行かんでいー。 ハイ余計なこと、すみません。
おりょうさんと小舟で巌流島へ出かけ花火をしたそうですね?
あんときは楽しかったぜよ、ですか。
はい個人商店です。
それでも経済活動には必須ですよね。 絶対龍馬様ならお分かりになると思います。
龍馬様は物流と商流を本格的にマネージメントした魁と考えているのです。
上海・下関間の貿易を考えたでしょう。長崎のグラバーさんたちとタイアップして。
年表なんか見ていると当時海外との貿易を社中組織として起こしたのがその理由です。
もうちょっと言えば龍馬様は日本における流通業のマーケッテングを実践したと思います。 ホントに。
このマーケッチングの原則は4つのPといわれて、プレイス・プロダクト・プロモーション・プライスの頭文字を
取っています。
龍馬様がいつも海を見ていた先、そう流通先進国のアメリカで誕生した理論ですが、その先に実践していたことは福沢諭吉も負けたと思っているのでは。
物流を忘れて売上を伸ばし結局コスト高になり思って経営を圧迫してる会社を見かけます。
薩摩の資産で長州へのマーケッチングをしかけたのは、大政奉還よりより具体的で興味あります。私自身は。
門司が目の前で大きな船が行ったり来たり、賑やかですね。
ここ下関に慶応2年ですから西暦1866年とあります、龍馬様は11月下旬に馬関商社を設立したらしいですね。 本当ですか?
なぜかって? それはですね、先の放送で「篤姫」なるテーマで放送していたのですが、主役の篤姫と薩摩の家老の小松帯刀が恋仲で恋文を交わしているのです。
そういうことから、司馬遼太郎といえども一小説家で歴史学者ではないのかも。
龍馬様も西郷さんに代わってブームされ担ぎ出されましたね。
文筋が、井上ひさしでなく、有吉佐和子の「悪女について」のようになってきました。
津本さんの小説「龍馬」を読んでいると、当時としては地球的な海図がいるのではと思い、チョット気になって、地球儀を取り出し眺めていると、私が船長になったつもりになり、下関から上海までの距離はいくらあるのかとさらに思いを入れていきました。
龍馬様いかがでしょうか。 いらんぜよ ですか。
計算の前提として、赤道いわゆる北緯0度の地球一周の距離を21,600海里(40,000km)10度を、600海里(1,111km)とします。
アツ! 失礼しました。そんなことぐらい 知チューですか。
さてその距離ですが、下関と上海の間の北緯の差が2度51分なので、その距離は151海里 (279km)と計算されます。これは縦の距離です。
どうです、あたりでしょう。
結構近いのですね。このの距離を幕府からみると密貿易してたことになります。
ネツネツ! 千夜一夜のお話しましょうか?
おりょうさんによろしく。 以上
桂浜を見下ろす高台にある龍馬さんの銅像を訪れたのは、32年前の2月でした。
案内してくれたタクシーの運転手が感慨深げに話してくれました。「関西から来た有名な経営者は、ここから広大な太平洋を眺めて坂本龍馬の心境になったように感嘆されました。一方、眼下の桂浜を歩いている団体客の方は、珍しいものを探し回っていました。同じ桂浜でも見る人によって見るところは様々です」と。その時の私は「太平洋はでっかいなぁ」と共感した方で、「景色は心を写す鏡のようだ」と実感しました。
当時、教育トレーナーという職種に就いて早々で、所属していた教育機関が高知市で初めて開催する研修を独りで担当したのです。しかも、新人の営業マンが初受注した記念の仕事でした。ただ、所定の半額程度で受注したため、受講者の数は通常の倍近くで、研修会場は夜間の暖房が止められる所に宿泊するという、新人のトレーナーが自立する初仕事にしては悪条件でした。予想を越える体験を重ねながら、とにかく2泊3日間を無我夢中でやり切りました。一番印象に残った出来事は、他人の意見を聞く我慢に耐えきれなくなった青年が、「自分がわかるように話せ!」と激怒し、合板張りの長机を拳で殴りました。一悶着の後で、長机をみると拳大の穴がポッカリ開いていました。彼の家は郷士の家系で、剣道を子どもの頃から続けて2段ということでした。彼の怒りのエネルギーの強さを眼にして、幕末の土佐の志士たちも350年もの長い間貯めていたエネルギーを発揮したのではないかと思えました。龍馬さんにも親しみを覚えたわけです。
私の初仕事は多難でしたが、沢山の貴重な出来事に充たされて、晴れ渡った青空と同様に清々しい気持ちで終了しました。大阪に帰るために高知空港に向かう途中のタクシーで、運転手の誘いを受けて桂浜に寄り道する気になりました。そして、「太平洋はでっかいなぁ」と素直に感激することができました。まさか30年以上も続ける仕事になるなど、つゆほどにも思ってはいませんでした。
この手紙を書くことになって、高知での初仕事が人材育成のプロとしての職業人生の原点になっていることを確認しました。あまりにも多くの場数を踏んできたために、初体験の必死さや新鮮な感動を味わうことは少なくなっています。
波乱と感動に満ちた人生を急いで走り過ぎた龍馬さんですが、多くの人にとって、生きる原点を問いかけてもらえる存在であり続けると思います。ささやかで大きなご縁に感謝いたします。
普通の人と何ら変わらない。ただ一つ違うのが、歴史に残る偉業を成し遂げたこと。知れば知るほど、近くにいる人のように思えてきました。
これからも、あなたと出会ったときの気持ちを持ち続けたいと思います。
【龍馬返書】
神戸高知県人土陽会がはじめて龍馬IN神戸のテーマの下、第一回の龍馬ウオーク開催に際し、龍馬解説の役割を買って出て頂いてから7年が経ちました。多忙なお仕事の合間を縫っての龍馬研究は、すでに専門家の領域に達し、とても余業とは思えない充実したもおでした。特に、忘れ去られがちな地元神戸に焦点をあて、こまめに龍馬の足跡を追って書かれた「龍馬が歩いた維新神戸」は、我々の龍馬神戸のバイブルと言える名著です。その著者の手紙が、なんとあくまで謙虚で、なお龍馬を追い求め続けておられる姿を見せ付けられ、自分の至らなさを思い知らされる心地です。
お願いですが、この手紙は投稿ではなく、審査員をお願いする予定の方からの寄稿として受け取らせて頂くことにいたします。今後ますますのご精進を期待しております。
6年生全員の15名が、それぞれの感想を綴っている中で、揃いもそろって文字が実におおらかであること。
これにまず感動を覚える。広大な大地のなせる業か、御指導の先生方の心配りか、生徒たちがいかにものびのびと学校・学級生活を送っている様子が目に浮かぶようだ。
15名という少数ながら、それぞれの個性を重んじながら、丁寧に配慮・指導されているに違いありません。
今から、急ぎ熟読の上、卒業式までに【龍馬返書】を一人一人宛に送ります。
私としては、どうしても高知市内の学校から手紙が頂きたくて、1月末どこか頼んでくれる先は無いかと相談をした。氏は即座に友人の某中学校校長にお願いしてみようかとの返事をくれた。その時には、どこそこのという確認はせず、もしかしたらの気持ちのまま一昨日に及んでいた。
昨日になって、たまらず氏に電話を入れ、その後を聞いてくれるよう依頼。その足で出かけるべく、習慣となっている郵便受けを覗いたところ、なんと高知市立旭中学校から分厚い封書が届いておりました。
急ぎ、中を確認しますと77通の手紙が在中。・・思わず土佐の空を向いて頭を下げました。