坂本龍馬さま・・・
今、私は京都に在し龍馬さんが通ったであろう小路を歩いています。
世の中の矛盾・不平等に怒りを持ちつつも何も出来ない、しようとしない自分。
行動よりも先に後先を考え・・現在にいたる・・・
まだに自分の天分を見出せない自分に歯がゆさを持ちつつ・・・
天分・・・
人間本来生まれ持った天性・性分あり・・・
ふと我に返り・・・自分を振り返ったとき・・・
自分にとってこの世に生を受けて・・・自分は一体・・・
特性・・天分・・
人の一生には、準備期・拡大期・仕上げ期があるそうです。(・・・・)
激動の世の中に生を受け・・
33年という短い生涯のなかで・・・
走って走って走りきった・・・龍馬さん・・
持って生まれた時間が33年という短いあぁ・・と言う間であったろうと思います。
自分自身少しでも龍馬さんの志を思いつつこれからの日々過ごす覚悟です。 京都 中田幸蔵
【龍馬返書】
中田殿お手紙拝見。かなり暗い、いかにも暗くていかんぜよ。
還暦を迎えられ、人生を振り返ってみた時に、ここまで落ち込んではなりません。
精一杯努力して来られた筈。家族の皆さんの頼りになってこられた筈。
人生の切所に度々遭遇されて、それを乗り切って来られてたでしょう。
私とて、舞くり廻っての33年。疾風怒涛の6年でしたよ。
人生あと20-30年はありますよ。何事か為すには十分な時間ではありませんか。
今日から、し遺した事、やりたかった事を始めて下さい。
性分からして、慎重派ならば、じっくり考えて、最良の仕事・事業を組み立ててみて下さい。
人の一生、何が起こるやもしれず、風呂に入ろうとて、垂れこけて湯船の角で金球を断ち割って死ぬ人もある中で、まず今迄の自分の人生に感謝。そして赤子になって周りを見渡す。そうすれば自ずと道が見えてくらあよ。
おりょうが待まっちゆーうき早よー! ですか。 わかりました簡単に ハイ。
いえ明石にも住んでいたことも。 あのタコで有名なところです。おっと鯛もあります、忘れていました。 ここ下関はふくが有名ですけど。 あっ 食べましたか。
明石の話に戻ります。 そこで、ちょっとしたことで、高知の出身の方にお知り合いになりまして、それから厚かましくも、よくゴチになったものです。
奥さんの料理がおいしかったです。 美人でしたよ、お店のママさんもやってました。 ハイ。
その方が、マアそのあなた様へお手紙を出すという企画を立てられました。文章は会社の議書しか書いたことないんでレターをお出しするつもりはなかったのですが、 遠い昔のこと、当方の親戚に田山なにがしという作家がいたとの話を聞いていますので、作家になったつもりで、ちょっと気取って書いてみようと思っい、マー取材させて頂いてる次第です。ハイ
バーっと速読してみましたが、役に立ったかどうか。
亡くなった田山の本家伯父あたりの話では、曾祖父あたりは三田尻で下関条約が締結された「春帆楼」のような旅館を経営していたとか、また海鮮問屋をしていて岩崎家よ り大きかったとか、よく聞きましたが、たぶん眉唾でしょう。
明石時代に、田山花袋が知りたくて市立図書館だっと思いますが本を探しだし、裏表紙の写真を見たら親父そっくりなのには驚きました。私の祖父は田山から養子に来たのです。
昔の旧福沢記念館には、彼の生涯が一こまごとパノラマになっている紙芝居みたいのがあって、咸臨丸が太平洋を大揺れに揺れて渡米している模型があり、暗い場内から照明に照らされ浮き出ていたことが印象に残っています。 その船は大波に揉まれ揺れていました。
慶大出身の人もあまり知りません。 私ももう少し勉強すればよかった。だめか。
慶応3年の11月から5カ月程度、おりょうさんと生活していたのだそうですね。
下関の長府博物館には、おりょうさんが龍馬様にやきもちを焼いてお茶碗を投げつけたとか、その割れた茶碗が展示されているそうです。近いうちに行ってみようと思います。
行かんでいー。 ハイ余計なこと、すみません。
おりょうさんと小舟で巌流島へ出かけ花火をしたそうですね?
あんときは楽しかったぜよ、ですか。
はい個人商店です。
それでも経済活動には必須ですよね。 絶対龍馬様ならお分かりになると思います。
龍馬様は物流と商流を本格的にマネージメントした魁と考えているのです。
上海・下関間の貿易を考えたでしょう。長崎のグラバーさんたちとタイアップして。
年表なんか見ていると当時海外との貿易を社中組織として起こしたのがその理由です。
もうちょっと言えば龍馬様は日本における流通業のマーケッテングを実践したと思います。 ホントに。
このマーケッチングの原則は4つのPといわれて、プレイス・プロダクト・プロモーション・プライスの頭文字を
取っています。
龍馬様がいつも海を見ていた先、そう流通先進国のアメリカで誕生した理論ですが、その先に実践していたことは福沢諭吉も負けたと思っているのでは。
物流を忘れて売上を伸ばし結局コスト高になり思って経営を圧迫してる会社を見かけます。
薩摩の資産で長州へのマーケッチングをしかけたのは、大政奉還よりより具体的で興味あります。私自身は。
門司が目の前で大きな船が行ったり来たり、賑やかですね。
ここ下関に慶応2年ですから西暦1866年とあります、龍馬様は11月下旬に馬関商社を設立したらしいですね。 本当ですか?
なぜかって? それはですね、先の放送で「篤姫」なるテーマで放送していたのですが、主役の篤姫と薩摩の家老の小松帯刀が恋仲で恋文を交わしているのです。
そういうことから、司馬遼太郎といえども一小説家で歴史学者ではないのかも。
龍馬様も西郷さんに代わってブームされ担ぎ出されましたね。
文筋が、井上ひさしでなく、有吉佐和子の「悪女について」のようになってきました。
津本さんの小説「龍馬」を読んでいると、当時としては地球的な海図がいるのではと思い、チョット気になって、地球儀を取り出し眺めていると、私が船長になったつもりになり、下関から上海までの距離はいくらあるのかとさらに思いを入れていきました。
龍馬様いかがでしょうか。 いらんぜよ ですか。
計算の前提として、赤道いわゆる北緯0度の地球一周の距離を21,600海里(40,000km)10度を、600海里(1,111km)とします。
アツ! 失礼しました。そんなことぐらい 知チューですか。
さてその距離ですが、下関と上海の間の北緯の差が2度51分なので、その距離は151海里 (279km)と計算されます。これは縦の距離です。
どうです、あたりでしょう。
結構近いのですね。このの距離を幕府からみると密貿易してたことになります。
ネツネツ! 千夜一夜のお話しましょうか?
おりょうさんによろしく。 以上
桂浜を見下ろす高台にある龍馬さんの銅像を訪れたのは、32年前の2月でした。
案内してくれたタクシーの運転手が感慨深げに話してくれました。「関西から来た有名な経営者は、ここから広大な太平洋を眺めて坂本龍馬の心境になったように感嘆されました。一方、眼下の桂浜を歩いている団体客の方は、珍しいものを探し回っていました。同じ桂浜でも見る人によって見るところは様々です」と。その時の私は「太平洋はでっかいなぁ」と共感した方で、「景色は心を写す鏡のようだ」と実感しました。
当時、教育トレーナーという職種に就いて早々で、所属していた教育機関が高知市で初めて開催する研修を独りで担当したのです。しかも、新人の営業マンが初受注した記念の仕事でした。ただ、所定の半額程度で受注したため、受講者の数は通常の倍近くで、研修会場は夜間の暖房が止められる所に宿泊するという、新人のトレーナーが自立する初仕事にしては悪条件でした。予想を越える体験を重ねながら、とにかく2泊3日間を無我夢中でやり切りました。一番印象に残った出来事は、他人の意見を聞く我慢に耐えきれなくなった青年が、「自分がわかるように話せ!」と激怒し、合板張りの長机を拳で殴りました。一悶着の後で、長机をみると拳大の穴がポッカリ開いていました。彼の家は郷士の家系で、剣道を子どもの頃から続けて2段ということでした。彼の怒りのエネルギーの強さを眼にして、幕末の土佐の志士たちも350年もの長い間貯めていたエネルギーを発揮したのではないかと思えました。龍馬さんにも親しみを覚えたわけです。
私の初仕事は多難でしたが、沢山の貴重な出来事に充たされて、晴れ渡った青空と同様に清々しい気持ちで終了しました。大阪に帰るために高知空港に向かう途中のタクシーで、運転手の誘いを受けて桂浜に寄り道する気になりました。そして、「太平洋はでっかいなぁ」と素直に感激することができました。まさか30年以上も続ける仕事になるなど、つゆほどにも思ってはいませんでした。
この手紙を書くことになって、高知での初仕事が人材育成のプロとしての職業人生の原点になっていることを確認しました。あまりにも多くの場数を踏んできたために、初体験の必死さや新鮮な感動を味わうことは少なくなっています。
波乱と感動に満ちた人生を急いで走り過ぎた龍馬さんですが、多くの人にとって、生きる原点を問いかけてもらえる存在であり続けると思います。ささやかで大きなご縁に感謝いたします。
お茶目で「我がまま」「土佐のいごっそう」の龍馬さん。
このような土佐人の特徴を身に付けていた龍馬さん。
しかし、龍馬さんは一つだけ決定的に違っていた。 それは「精神の近代性」を身に付けておられたと聞いています。
龍馬さんは大政奉避の後、西郊隆盛や桂小五郎から明治政府の内閣入りを打診されましたが、『変えた人間は入るべきではない。それよりも海援隊を使って世界と交易するのだ』と言って御自分の信念を曲げられませんでしたね。自らの損得も権力も関係なく純粋に仕事を楽しまれました。
御自身の名前は決して入れず、残さず、その偉業が日の目を浴びる段になると名声を他に譲る、この精神こそがお茶目な寵馬さんのいごっそうなところなのです。
土佐では加尾さん、江戸では千葉道場の佐那さん、京都では妻となるお龍さんと,その他には、神戸の福原、平野でも飲み歩き、お茶目な龍馬さんは随分ともてましたね。
佐那さんとは結ばれませんでしたが、山梨・甲府の古寺にある佐那さんの墓石の裏には、龍馬さんの華を意味する「坂本龍馬室」の文字が刻まれているそうですね。
やはり龍馬さんは英雄です。英雄は色を好むのです。 お茶目だからこそ難題だつた薩長同盟を成し遂げられたのでしよう。長州も薩摩もなく「まっこと日本全体の為に」の「進取の精神」がありました。
現代は平成維新と言われていますが、我が国を導く政治家で龍馬さんのように「業半ばで斃れても良い。その時は目標の方角に向かい、その姿勢で斃れよ。」の精神を持つリーダーが現れることを待っている今日この頃です。 高橋 直明
【龍馬返書】
高橋さん待ちよったぜ。締め切りが迫り、今日明日にも電話して忘れてはいませんかとお願いをするつもりでしたが、夜半いきなり携帯で「誰か分かるかよ」とのお茶目な声。メールが具合い良くないのでFAXで手紙を届けたと嬉しいお話だ。早速龍馬ブログにUPしました。
さて、当時私達が何処まで日本を意識していたか考えてみますと、誠に微妙であります。
国と言えば藩のことで、むしろ日本の民、この那、山河全てを含む日本全体が異国の脅威に晒されることへの
恐れを何処まで意識するか、しないかで、攘夷・開国・勤王・佐幕というそれぞれの立ち位置が決まって行ったように思います。
仰るように業半ばで勇ましく斃れた事を今思えば、もっと用心をして、あの時のタイミングで命を失うと言うことだけは避けるべきであったと悔やんでいます。
というのも、少なくとも、明日の日本の設計図を書く人物がいない中、羅針盤なしで大海原に乗りだすようなことだけはさせたくなかったからです。
竜馬さんの功績と、今も多くの日本人に親しまれている訳を考えています。
幕府を倒し、新生日本の樹立に貢献された功績は今も称えられています。
あまり知識の無い私は私なりに竜馬さんの事を今考えています。
命懸けで土佐を脱藩された時の心境をお聞きしたい。
差別に耐えかねての 脱出だけとは思わないのですが、幕府を倒し、日本を変える構想はすでに あったのでしょうか。それしか土佐を変える方法が無いと思われたのでしょうか。
私は竜馬さんは対人交渉に優れた人と思い、商人として優れた才能を 持って居られたと思っています。
長崎では充分に商才を発揮されたのではないでしょうか。
鉄砲を仕入れ、薩摩に売り、長州へも渡し、倒幕に貢献しています。
人的交流の機会も増え、時流を読む事にも優れ、日本の変革の必要を痛感しておられたと思います。
後に倒幕・開国はなったのですが、龍馬さんの目指した日本になって行ったのでしょうか。
虐げられた民は救われたのでしょうか。
産業振興・富国強兵 のもとで庶民の暮らしはどう変ったのでしょうか。
日清・日露・支那事変そして太平洋戦争へと駆り出された庶民の不幸は続きました。 そして現在、貧富の差が大きく拡がり、先行きの見えない日本になっています。
日本の国のあるべき姿も曖昧になり、日本人の生きていく道も見え難くなっています。
竜馬さんの差別のない国の実現は未だ達成されていません。
ご返事をいただけない手紙と承知していますので、あらためて竜馬さんのお考えを 研究して、現代の指針になるものを探し出したいと思っています。
私はあるドラマの中で、土佐勤皇党の友の死を知った竜馬さんが「天国へ行ったら アメリカのエブラハム・リンカーンを訪ねよ、彼は差別の無い国を作っているぜよ」 と叫ぶシーンが印象に残っています。差別を実感され、解放を叫ばれた竜馬さんのお考えを探って行きたいと思っています。